課題図書 2009年12月 山びこ学校

http://d.hatena.ne.jp/sessendo/20091211/p3

山びこ学校 (岩波文庫)

山びこ学校 (岩波文庫)

開始:12月19日 読了:12月24日

今から23年前私は行き倒れたことがある。読んでいてその時のことを思い出した。夏の暑い時期で、アルバイト帰り、ほとんど飲まず食わず。私は超がつく苦学生だった。薄れゆく意識の中で気がついたら病院だった。原因は過労と栄養失調、救急車で運ばれて、点滴を打ってもらって良くなった。アルバイトばかりしていた無保険の私は、アルバト料のほとんどをその治療費にあてることになった。本当は学費と家賃と食費に変わる予定だった。切り詰めるだけ切り詰めた結果、食べるものも食べなかったから栄養失調で倒れたのだが、治療費にばけてしまった。腹がったって、誰かのせいにしたかったが、救急車を呼んだ人、救急隊員、医者、看護師、受付の人、誰ひとり悪いことをした人はいなかった。結局自分が一番みじめで腹が立った。命拾いしたのは間違いないのだが、感謝するとかそんな余裕はまったくなかった。
「母の死とその後」は、死と隣り合わせの貧しさを感じる。子供の純粋さは迫力となり、そのまっすぐさは、手加減がない。江口江一は貧しいが、集落で蔑まれるほどの貧乏ではない。家屋敷があり、煙草畑もあり一家は、畑や冬のわらじ作りで生計を立てていた。戦争のせいか、父の死か、経済状況の悪化かそれまでのようには生計が立てられなくなっていた。母は病気になり、病院に行く金がない。病院に行くには家畑を売るくらいしか考えがおよばない。もしくは、そういう家が集落にあったのであろう。しかし、畑を売るという選択はなかった。医者に診せることも出来ず母は亡くなる。畑を売ったら母は死なずに済んだかもしれないが、途端に一家の生計は立たなくなる。彼は一家が生計を立てていくにはさらに広い畑が必要だが、その畑を取得するためには、誰かが同じような状況の中手放したものを取得する必要があるのではないかと心配する。彼は、疑問を発し、その疑問に対して勉強で答えを出す決意をする。

第一は、ほんとに金がたまるのかというギモンです。第二は、僕が田を買うと、また別な人が僕みたいに貧乏になるのじゃないかというギモンです。(略)お母さんのように貧乏のために苦しんで生きていかなければならないのはなぜか、お母さんのように働いてもなぜゼニがたまらなかったのか、しんけんに勉強することを約束したいと思っています。私が田を買えば、売った人が、僕のお母さんのような不幸な目にあわなければならないのじゃないか、という考え方がまちがっているかどうかも勉強したいと思います。

 読んだ時に違和感を感じた、理由は学校では貧乏から抜け出す方法なんて教えてくれないだろうということ。それも死を覚悟しなければならない貧しさそんなことを向き合える学校があるのか。江口江一のまっすぐすぎる向学心が痛々しくも感じる。しかし、あとがき、無着成恭氏の言葉に、このまっすぐさの理由を理解することが出来た。子供達の思いをまっすぐに受け止める先生が無着成恭氏だった。今学校で学ぶ内容は、「やまびこ学校」と比べるとまるで生活感がない。社会の仕組みを教わるでもなく、どうやって生きていけば良いか教わるわけでもない。夢を持つことの大事さを教わっても、実現できなかった時の現実と向き合う方法を教えてもらえるわけではない。愚直なまでに子供と向き合う先生との出会いは、ある意味奇跡に近く幸せだと思う。江口江一の感謝の気持ちがそう物語っている。